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快適なオナニーライフを目指した日々の試行錯誤

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理不尽大王

本日は偉大なプロレスラー冬木弘道さんの命日です。
冬木弘道

2003年3月19日にお亡くなりになってから、もう10年も経ちました。
僕は、冬木さんと少しの間、接する機会があったのです。

2002年に僕は、某風俗メディア会社に入社し、そこで風俗新聞の編集ライターを務めさせていただけることになりました。
その新聞は、風俗以外にもギャンブルや芸能・社会面など他ジャンルの紙面もあり、僕はプロレス・格闘技面の担当になりました。
そこではプロレス・格闘技のほとんどの団体を取材することになりました。
当時の上司が仕事の振り方に遠慮がない人で、格闘技はマイナーなMMA団体から修斗、DEEP、PRIDE等、ほぼ全ての団体を取材。ボクシング系は、キックやSB、K1などももちろん網羅。キックに関しては、多数ある各団体を一通り周りました。プロレスも、どインディー団体(埼玉プロレス、セッドジニアス等)から、冬木軍、WEW、大日本、DDT、闘龍門、T2P等の売れているインディー、更にメジャー団体も取材。
これらの団体の試合を取材した上に、更に記者会見にも参加させられ、かなり疲弊しました。
しかも、仕事を振る二人の上司様は、一人は日がな一日中社内でボーっとして定時で帰る。
もう一人は、大好きな女子プロレスの取材にだけ行く変態欲望に忠実なお方。
理不尽な環境の中、会社の犬として餌を貰う為だけに走り回っていました。
今も似たようなことをやっていますが。

そんな中、冬木軍の冬木弘道さんがノアの三沢光晴さんに直接対戦を直訴するというリリースが会社に届きました。
冬木さんが自宅のある横浜から有明のノア事務所まで走って向かえば、三沢さんが話し合いに応じてくれるという内容のもの。
会見場として指定されたノアの有明事務所に向かうと、なぜか車に乗った冬木さんが現れました。
リリースには、冬木さんが有明事務所に走って向かうと書いてありましたが、冬木さんは普通に車で登場。
しかも、事務所から100mほど離れたコンビニに車を止めると、そこからヨタヨタと走り始めました。
ニヤニヤ笑いながら楽しそうに走る冬木さん。
その冬木さんを笑顔で追いかけるカメラマンやライター。
僕も一緒に冬木さんと走りました。
事務所に着くと、「ここからは話し合いなんでここで待ってて」と冬木さんは言い残して事務所に入っていきました。
少し時間が空いて、再び冬木さんが登場すると、三沢さんとの交渉は成功して試合ができるという発表をしました。
僕はこの時初めてプロレスのアングル(プロレスの試合を作るためのストーリー)に立会いました。
そして、本当に楽しそうに笑いを提供している冬木さんに魅せられました。

その後、冬木さんが気になったので冬木軍興行の取材をさせていただきました。
試合後、控え室で冬木さんを取材させていただくと、公式コメント終了後に雑談として「最近、体重が落ちているんだよね」とおっしゃっていました。
前所属団体のFMWが倒産してしまった影響だろうとマスコミの人は言っていましたが、冬木さんは疲労感と体重の減少を気にされていました。

そんな中、4月9日の冬木軍興行の試合後、冬木さんの口から突然の引退発表がありました。
引退を宣言した瞬間、マスコミはいつもの冬木さんお得意のアングルだろうと思っていましたが、周囲にいた金村キンタロー選手やスタッフが一斉に涙を流したので、これは本当の事だと判断。
マスコミが一斉に前へ乗り出し、カメラマンが物凄い勢いでシャッターを切る中、冬木さんはガンに犯されたために引退するとおっしゃいました。
更に、三沢さんも控え室に現れて急遽冬木さんの引退試合をノア協力のもと行なうと発表しました。

冬木さんと三沢さんは全日本プロレス時代からの盟友で、冬木さんが全日を辞めても友好関係は続いていました。
今回は友人に引退試合をしてもらいたいという三沢さんの思いから急遽決まったのです。
会場を抑えたのも、宣伝を行なったのも、全てノア。
ゼニカネではなく、友情だけで動ける三沢さんの男を見た瞬間でした。
こういった義理人情は、今の日本ではほとんど見られなくなりました。

引退後、冬木さんはWEWという団体を興し、そこのプロデュサーに就任しました。
常に面白いことを考え、それを高いレベルで実行しようとする意思は、取材を続けていく上で肌で感じました。

冬木さんは団体では悪徳プロデューサーというギミックで試合に関与していたので、これまで通り悪事の限りを尽くしてきました。
その流れの中で罰を受けることもしばしばで、時には大量の納豆を頭から被ったりもしていました。
体を張ってお客さんに笑顔を提供していたのです。
控え室での冬木さんは、人を楽しませたい、楽しいことをしたい、エンターテイメントというものを根付かせたい、という強い意思を常に隠すことなく披露していました。
納豆まみれの体で、それを拭くこともせずに「どうだった? 面白かった?」と聞いてきます。
理想を実現できていない現状を嘆き、常に高いレベルを目指していました。
その気持ちに触れ、僕もエンターテイメントとは何であるかを真剣に考えるようになりました。
人に楽しんでもらうにはどうすればよいのか、人と一緒に楽しむにはどうすれば良いのか、ということを真面目に考えるようになりました。

冬木さんと出会って、僕は初めて人に対して何かを提供することの意味を真剣に考えるようになりました。

そんな中、ガンの手術に成功したはずの冬木さんが再び体調不良を訴えるようになりました。
試合後の控え室でたまにおっしゃるぐらいなのですが、見た目ではかなり辛そうに思えました。
ガン細胞が肝臓等にも転移していたのです。
しかし、これまでの冬木さんは理不尽な言葉と破天荒な行動で注目されたため、いくら体調不良を訴えたところで「どうせアングルだろ」としか思われませんでした。
それはグータラ上司ですらそのように言う状況で、冬木さんの現状を理解しているのは現場で取材しているライターだけでした。
しかも、引退興行の際は多くのマスコミが来ていたものの、WEWの取材に来るマスコミは専門誌2誌のライターとカメラマン、WEBサイトのライター、そして僕という少数。
これらの面子と、大物プロレスマスコミの面々だけが、冬木さんの現状を把握していました。

そして、WEWの集客が厳しくなった2003年。
冬木さんは決死の思いで団体の逆転を目指して、自身が限定復帰して橋本真也さんとの一騎打ちを画策します。

日時は、5月5日。
場所は川崎球場。
かつてFMWがビッグマッチを行なった日付と会場です。
そこで冬木さんは橋本さんと電流爆破マッチを行ないたいと要求します。

3月11日。
既に病院で入院していた冬木さんは、外出許可を貰って後楽園ホールのWEW興行に向かいました。
そして、リング上で橋本さんに対し電流爆破マッチを要求。
これを橋本さんが正式に受けて、晴れて対戦が決定しました。

しかし、この時リングに上がった冬木さんは一人で立つことができず、隣にいた人に支えてもらっている状態でした。
ただ、隣の人は観客から見えないように背中を腕で支えており、冬木さんは最後までプロレスラーとしての誇りを観客に示していました。

試合後、控え室前で冬木さんを取材させていただきました。
この1年、毎回この取材をさせていただきました。
そして、良いお話をいつも聞かせていただきました。
この場に集まったのは、専門誌2誌と僕の3名のみ。

いつもの面子でした。

冬木さんは本当にツラそうで、お話を聞くことも申し訳なく思ったのですが、冬木さんが喋ってくれる以上、これを読者に伝えるのは僕の義務であると思い、お話を聞かせていただきました。

しかし、その場でお話いただいたことは、紙面では使えませんでした。

プロレスのアングルやそういったことの話は一切無く、病院での生活の様子をおっしゃっていました。

そこで、僕は初めて弱音を吐く冬木さんを見ました。

ツラい入院生活を笑顔で語る冬木さん。
ただ、顔色は真っ青で、まともに立てない状態です。
それでも、お話の最後は記者全員の目を見て笑顔を見せてくれました。
僕はあの時の冬木さんの笑顔が忘れられません。

その8日後。
3月19日に冬木さんはお亡くなりになりました。

僕はマスコミの報道でその事実を知りました。

冬木さんが文字通り命を懸けて目指した5月5日の橋本戦。
そのリングには、冬木さんの弟子の金村選手が上がりました。
試合前、冬木さんの遺骨を抱えてリングに上がる金村選手。
その遺骨を自身に渡すよう要求する橋本さん。
ザワつく川崎球場。
遺骨を抱えてしばらく俯く橋本さん。
一拍置いて、おもむろに電流の流れる有刺鉄線に突っ込みました。
爆風が橋本さんを包む中、大事そうに遺骨を抱え込みます。
冬木さんが橋本さんに一矢報いた瞬間です。

周囲のファンは皆、泣いていました。
僕も涙で橋本さんの姿が見えませんでした。




冬木さんからは人生において大切なものを沢山学ばせていただきました。

僕の中で冬木さんは最高のプロレスラーです。
いつか、あの世でもう一度ご挨拶させていただきたいと思います。






(ゲル)
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