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わたしの偉人100人 VOL.24

今回のわたしの偉人100人は落語家、桂枝雀

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本名を前田達(まえだとおる)。神戸大に入学するが「大学がどんなとこか大体分かりました」とあっさり辞め、3代目米朝に弟子入りし、桂小米時代は内容を深く掘り下げた大阪では珍しいインテリスタイルの落語からはじまり、2代目枝雀の襲名を境にその落語スタイルを大きく変え、高座で笑顔を絶やさず、オーバーアクションの計算された芸と独自のセンスでそのスタイルを作り上げ、落語界にひとつの時代を築いた。

「緊張と緩和」「サゲの4分類」といった笑いを理論的に追求していった持論から、持ちネタを60としてそれらの研鑽に専念した姿勢、前後編分けることの多い「地獄八景亡者戯」を一気に演じきり、伝説となった1984年3月28日の歌舞伎座での「第一回桂枝雀独演会」、その後の英語落語の展開はその成功や評価とともに芸を突き詰め自身を追い詰めてしまう危うい性格をうつしていたのかもしれません。

エピソードや影響を与えた人物も多く、上岡龍太郎が20歳の頃に米朝の弟子になろうとして、その時に米朝宅にいた小米時代の枝雀を見てこの人にはかなわないと弟子入りを諦めたという話や、松本人志は「最高にノッている枝雀寄席はなぜか分からないけど鳥肌が立って泣けてくる。もちろん本人はそんな意図でやっていないだろうけど…芸人は寛美さんや枝雀さんのように常に作品を作っていかなければならない。僕はそういう人になりたいと思う。」と語った。

うつ病に悩まされ、高座のマクラで「うつ病になってしまった」と話したり、「色んなことを試みてるうちに、自分の落語がわからなくなってきた」と泣いたりすることもあったという。そして1999年3月13日に自宅で首吊り自殺を図っているところを発見され、その後意識が戻ることなく4月19日に死去した。享年60歳、突然過ぎた死でした。

「ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になる」という気持ちから、常に明るく陽気であろうとし、「まぁるく、まぁるく」という言葉をサインの横に添えた人でした。師匠米朝と比べられ、同じ古典落語でも米朝がオーソドックスな落語スタイルからその人柄を生真面目に捉えられがちですが、その芸に至った道や生き方を思うと、師匠米朝よりも生真面目だったのが枝雀だったのかもしれません。米朝が「死ぬよりほかなかったのかと今は思う。」と語った言葉が悲しく響きます。
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